都市部や観光地で過ごす時間より、その中間にある観光客がめったに立ち止まらないような村で過ごす時間のほうが長い
自転車旅人の中で、特に人々の「おもてなし」が素晴らしいとささやかれる国々がある。
その代表的な国として、まずは私たちの大好きな国、トルコ。
ターキッシュホスピタリティと呼ばれる彼らの底なしの明るさと手厚いもてなしは時に信じられないほどで、
去年の南部トルコサイクリングに引き続き、今回の旅のスタートを北部トルコにしたのもこの理由。
寒さで体がキンキン冷え切っても、人々のあたたかさと至る所で差し出されるチャイのぬくもりが
私たちを何度も励まし、あっためてくれたのは言うまでもない。
そんなトルコのホスピタリティをさらに上回ると評判なのが、イラン。
そしてアフリカのなかではスーダンの名前をしばしば耳にする。
どちらの国も今回の旅では行けなかったが、いつか必ず行きたい、というよりいつか行くだろうと確信している。
(行きたい土地はきっと一生尽きません。笑)
また去年3ヶ月間滞在したバルカンの国々のなかでは、ワイルドで人懐っこいアルバニアの人々が印象的だった。
それから今の状況では残念ながら訪れることが難しいシリア、アルジェリアなんかも、
過去に自転車で旅した旅人から人々の優しさが凄まじかったと聞いた。
念のため誤解のないように書いておくが、私たちはこれまで自転車で訪れたすべての国で、
素晴らしいもてなしを経験し、あたたかく迎えられてきた。
だけどここに挙げた国々は「特に」度を超えたおもてなしぶりだということを強調しておきたい。
この「特に」素晴らしいと絶賛されるおもてなしを兼ね備えた国々に、ひとつの共通点があることに
みなさんお気づきだろうか?
そう、上に挙げた国すべて、イスラム教を主に信仰している国なのだ。
これは決して偶然ではない。
イスラムの教えで「ゲストは神からの贈り物」と言われるそうで、その背景と文化が今でも強く根付いているからか、
僻地に住む年配の人でも、信仰心の強くない若者でも誰でも、私たちのような自転車で現れた謎の外国人を
「思いがけない贈り物」として心から歓迎してくれる。
もしメディアから流れるイスラムに関するニュースのみを真に受け、実際に彼らと知り合い深く関わることがなければ、
イスラム教やムスリムの人々に対して好意的なイメージを持つことは悲しいけど難しいのかもしれない。
だけどここ数年メディアからかけ離れた生活をしている私とエリオットにとってイスラムの国々はとてつもなく
いい印象があり、イスラムの国や地域へ入るととても安心感を覚えるのだ。
正直いってイスラム教自体について詳しくは知らないし、彼らに宗教の話題について深く踏み込んだこともない。
また、ゲストに対して友好的でもその他に対してはどうなのか?と言われるとはっきりはわからない。
だけど満面の笑みで手をふり、手招きをして私たちをお茶や食事に誘ってくれる人情溢れる彼らが
いい人じゃないわけはない!と、単純に感覚として感じている。
政府や政治、また他国との関係性で国を判断する人がいるならば、
私たちは自分たちが見た光景とそこで出会った人たちからその国のイメージを築きたいと常々思う。
現在私たちがいるアゼルバイジャンもイスラム教の国なのだが、ビザが30日しか下りないせいで
サイクリストは急ぎ足で村々を通過するからか、この国についての評判を不思議と聞いたことがなかった。
そして先入観も前情報もなく国境を越え、自転車を漕ぎ始め1時間もしないうちに気づいたことは、、、
人がめちゃくちゃいい!!
田舎道を走る昔ながらのスタイルの小さな車は私たちを見つけるなり速度を緩め
クラクションを鳴らし、にこにこ笑顔で大きく手を振りながら通り過ぎてゆく。
歩いている人の笑顔もとにかくあったかい。
さらに私たちの左手には真っ青な青空に映える白く気高い山脈が延々と連なり、
自然と顔がにやけるような満ち足りた気持ちになった。
私たちの日々の寝床の割合は、テント泊が半分、ホームステイ(人づてに招いてもらったり、カウチサーフィンなどを
したり)が半分で、宿に泊まることはめったにない。
テントで寝るときは町や村をできるだけ避け、ひと目につかない草の茂みや森を日が傾き出した頃に探し出す。
雨の日なら屋根のある場所や廃墟、村や畑が至るところにある時は民家や農家の人に尋ねて彼らの土地にテントを
張らしてもらったりもする。
稀に目ぼしい寝床がなかなか見つからないまま日が暮れだし、少々焦りを感じることもあるけれど、
これまでの経験から「そのうち適当な寝床は見つかる」とエリオットとお互いに言い聞かせ、
実際に何かしらぐっすり眠れる寝床を毎晩見つけている。
そしてこの日も、いつものようにきょろきょろと寝床ハントをしながら自転車を漕いでいた。
西側のアゼルバイジャンは前の国グルジアに比べ、家や畑が点在しているため人目につかない場所を見つけることが
少々難しく、私とエリオットはあえてメインの道路から逸れて狭いあぜ道へ入ることにした。
すると予感的中、干からびた川沿いに平らで芝の生えたテントを張るのにぴったりのスペースを発見。
辺りを見渡すと、川の石を動かして何か作業をしている青年がいたので、ここにテントを張っていいかと確認する。
(たとえ彼の土地ではなくても、村の人に私たちの存在を知らせておくと何かと安心なのです。)
もちろん英語は通じないので、これまで百回以上はやったであろう身振り手振りのジェスチャーと拙い現地語で
「テント」「キャンプ」「ここで寝る」と芝生を指差し、「家」「水」「食べ物」「全部ある」と自分たちの鞄を指差した。
しかし珍しくなかなか意図が伝わらず(いや、伝わってるのか伝わってないのか判断できず)、
何度もこのやりとりを繰り返すが、青年はしきりに芝生とは逆方向を指差す。
そして何となくのニュアンスと最大限の想像力を働かし、青年が「寝る」「おれの家」と言っていると理解し、
どこへ行くのかはさっぱりだったが、彼の後をついていってみることにした。
歩いた距離はわずか1、2kmだったと思うが、どこへ向かうのか分からないまま無言で彼の背中を追う時間は
とても長く感じ、その様子を不思議そうに眺める村人の視線をたっぷり浴びながら、彼のあとを歩いた。
青年はまた別のあぜ道へ方向を変えると一軒の民家の門を開け、私たちが予想したとおり、さっき出会ったばっかりの
私たちを彼の家へ招いてくれた。
家へ着くなり、彼のお母さんと奥さんはまるで私たちが来るのを知っていたかのような笑顔であたたかく出迎え、
すぐに夕食とベッドの準備を始めた。(なんと青年と奥さんのベッドルームを私たちに使わせてくれた!)
「テント」あるし、「食べ物」も持ってるからご遠慮なく、とまたジェスチャーで伝えようとしたが、
交渉の余地はなかったようだ。
釜で焼いたパン、牛と羊から作ったヨーグルトとチーズ、野菜、卵、すべてが彼らの庭からきた食卓。
こういった半自給自足の生活をする村では、オーガニックなんて言葉は存在しない。
オーガニックなのが当たり前だからだ。
ありがたくおなかいっぱいになるまでご飯をいただいた頃、青年のお父さんが牛たちと一緒に帰ってきた。
お父さんは家からひょっこり出てきた「思いがけないゲスト」を見ると、おーよく来たよく来たと言わんばかりに
うれしそうに踊りだした。
ホスピタリティ溢れるこの家族と出会って、なんで青年が私たちを家へ招いてくれたのか
そのときとても納得がいった。
いつものようにテントで眠るはずだった一夜が、一瞬の出会いから忘れられない一夜になる。
こういう予測できないサプライズがあるからこそ、自転車で素朴な旅をしていて良かったと思う。
美味しいご飯を食べたり、心地良いベッドで眠ることは、お金を介せばいつだってすぐにできる。
だけどお金を介さない、ただ心と心だけのおもてなしには、レストランやホテルにはない何か特別なものがあることを
こういった人々との経験が教えてくれる。
私たちはこの家族をこれからも忘れないし、彼らも私たちのことを忘れないだろう。
朝ご飯をいただいて、お父さんと少しゲームをしたあと、出発と別れのときがきた。
家族は「またアゼルバイジャンに来たときには戻っておいで」と私たちを抱きしめ、
“アラー(イスラムの神様)、彼らを導いてくれてありがとう”という短いお祈りの言葉を唱えた。
とても心温まる話ですね。
誰かが発信した情報だけを取捨選択する人がほとんどの中、
マユさんたちのように世界と、言葉の異なる人たちと直に繋がる経験はとても尊いものです。
その体験をシェアすることは誰かにバトンを渡すことであり、平和の連鎖への小さな一歩だと思います。
同じ自転車旅行者として僕もそうでありたいと思います。
それにしても草原の中でのキャンプは気持ちよさそう!
早く旅がしたいです(笑)
ユウスケさん
うれしいコメントありがとうございます!
まさにこういった些細な体験を人から人へ伝えることが、私たちの旅の目的のひとつでもあると感じています。
誰にも見つからない自分たちだけの気持ちいいキャンプスポットを発見すると、得した気分になりますね。
まるで秘密基地を見つけたような、、、
ユウスケさんの南米からのメッセージも楽しみです!