彼との出会いは突然やってきた。
舞台はヒマラヤ。
インドとチベットの国境をなぞる魅惑の谷、スピティを旅し始めてから2週間が経ったある朝。
Kibberという標高4270mの小さな村を出たところでひと晩を過ごし、いつものように朝食を作ってチャイを飲み、いつものようにテントをパッキングして、まだ肌寒い空気のなかペダルを漕ぎ出した。
その日は登り坂からのスタート。傾斜を少しずつ上げるぐねぐね道をゆっくりと体を慣らすように漕いでいると、いつもの朝とは違う出来事が起こった。
どこからともなく、息を切らして興奮した様子のオレンジ色の犬が私たちの目の前に現れたのだ。
まるで私たちを見つけるなり追いかけてきたような犬の唐突な登場に反射的に警戒したのだが、吠えることなくしっぽを振って飛び跳ねる彼を見て、彼がフレンドリーな犬だとすぐに察した。
今まで各国を自転車で旅してきて、もっとも厄介だといえる動物は間違いなく「犬」だろう。
例えば、モンテネグロでは毛がフサフサの巨大な野犬(名付けてライオン犬)のしぶとい追跡から必死で逃げ切ったり、アゼルバイジャンでは牙をむくシェパードの大群に危うく攻撃されかけたりと、サイクリストと犬の相性があまり良くないことは十分に承知していた。
だけどこのオレンジ色の犬はそんなストーカー犬とも凶暴犬ともどこか違うようだ。
しばらくして落ち着きを取り戻した彼は、てくてくと自転車を漕ぐ私たちの前を走り出した。
私たちが止まれば彼も止まり、私たちの姿がカーブで見えなくなればわざわざ引き返して迎えにくる。いい距離感で、ペースに合わせながら、まるで私たちをどこかへ導くように。。。
このオレンジ色の犬との不思議な旅は、こうして静かに始まった。
過去にもフレンドリーな犬が私たちの後を付いてきたことはあったけれど、数キロも通過すれば疲れて私たちへの興味をなくし、走ってきた道を引き返していくのがお決まりのパターンだった。だけどこの犬は、一時間経っても、二時間経っても、飽きずに付いてくる。
「どこから来たの?」「名前は?」「目的地があるの?」
気になって話しかけてみるが、もちろん返事はなし。試しに色んな名前を読んでみるが、反応もなし。
背中の毛並みは荒いけど体はいい具合に肥えていて、人に慣れていることから、家畜とともに長距離を移動する遊牧民の犬なんじゃないかと私とエリオットは予想した。(しかし後に路上で遊牧民と馬の行列を追い越すとき、馬に戸惑い怯えていたことから、この予想は却下された。。)
謎だ。聞きたいことがたくさんあっても何も聞けない歯がゆさ。
そんなはてなマークだらけの私たちをよそに、彼はカラフルで壮大な谷をまっすぐ走り続けた。
私たちはこのオレンジ色の犬を、友人の行方が分らなくなった愛犬の名を取って“ゴエモン”と名付けた。
お昼の時間が近づくとともに、小さな村に到着した。
ゴエモンはこの村から来たんじゃないかという私たちの第二予想も外れたようで、村に入ってもどこかへ消え去る気配はまったくない。むしろ、外部からやってきたゴエモンに村の犬ギャングたちが過敏に反応し、ゴエモンを取り囲んで吠えだした。
この時驚いのは、そんな危機的状況でもゴエモンが吠えずに冷静でいたこと。
そういえば、ゴエモンは出会ってからまだ一度も吠えていない。移動をし続けて腹ペコなはずなのに食べ物をねだることもなく、落ち着き払っている彼の様子に感心した。
午後は風が強くなり雲行きが怪しくなってきたため、大きな岩で風を遮るようにテントを張れるスポットを探し、移動を早めに切り上げることにした。
道を外れて自転車を漕ぎ出すと、ゴエモンは「どこ行くねん、道はそっちじゃないよ」というような戸惑った表情で立ち止まり、道脇に佇んで私たちを眺めていた。
さて、ゴエモンはこのまま一緒に一夜を明かすのか?
興味深くしばらく見守っていると、私たちが路上に戻ってこないことを悟ったのか、彼も道を外れててくてくとやってきた。そして私たちの自転車の横にお気に入りのスポットを見つけると、すぐさま体を丸めて眠りについた。
1日動いて疲れたんだろうな。にしても、なんで付いてくるんだろう。。と不思議でならなかったが、答えが出ることはきっとない。
夕食はレンズ豆と野菜を炒めたシンプルな私たちのご飯を彼に分け、ゴエモンとの初日が終わった。
翌朝目覚めて一番に気になったのは、ゴエモンがまだ外にいるかということだった。テントのジッパーをすばやく開けると、昨晩とまったく同じ場所にまったく同じ丸まった状態でゴエモンはいた。
私もエリオットも、正直ほっとした。
たった1日一緒に過ごしただけなのに、すでにかなりの愛着心が沸いている。
思えば、私は子供の頃から今までペット願望を持ったことがなく、犬好きというほどでもない。だからペットの写真を取りまくる人やペットに手間暇尽くす人の心境がよく分からなかったのだが、今ならだいぶ分かる。
自転車を止めると仰向けになってお腹なでなでをねだることとか、水場や川を見つけるとすかさず温泉に浸かるみたいにお腹を冷やすこととか、ほとんど何にも興奮を見せないのにビスケット休憩にだけはテンションが上がることとか、とにかく行動の数々が愛らしく思え、険しい道のりの疲れを忘れるほど心が癒された。
いったいどこまで一緒に旅できるのだろう?と常に疑問に思いながら、ゴエモンとの2日目が終わった。
3日目。
この日のプランは、標高4500mの峠Kumzum Laを越えた後、下り坂をできる限り下ってキャンプすること。9月初旬のヒマラヤは、標高が高ければ高いほど夜の気温はぐっと低くなる。
だが、自転車旅にプランはあってもないようなもの。。
道の状態が悪い登り坂に苦戦したことと、あまりの景色の美しさに何度も足を止めたことで、頂上に到達したときにはすでに4時を回っていた。傾斜のある道の両脇は急勾配の崖になっていることが多いため、キャンプスポットを探すことが難しい。
下るべきか、ここでキャンプすべきか。
決断を迷った末、頂上付近で運良く湧き水を見つけたことから、坂を下らずにキャンプすることに決めた。
私たちはテント内で寝袋とダウンジャケットを着れば問題なく寒さに耐えられるのだが、ゴエモンがフサフサの毛に覆われているとは言えどれほどの寒さに野外で耐えられるのか、犬知識のない私たちには分からなかった。
特に心配したエリオットは、すでに眠りに落ちかけているゴエモンを抱きかかえ(結構な重さ)、テントのポーチ部分に連れてきた。テントのフライシートのジッパーを閉めれば風に当たることなくあったかいと思ったのだ。
むりやり抱きかかえられてもジタバタもせずされるがままのゴエモン。
しかしフライシートのジッパーを閉めようとするとゴエモンは狭い空間にびっくりしたのか飛び上がり、もとの場所へと戻っていった。
4日目の朝。
気温がマイナス5℃には達したであろう夜を乗り切ったゴエモンは、岩横のスポットから太陽の当たる芝のスポットへと移動してすやすやと眠っていた。
なんて手のかからない犬なんだ。そしてなんて素晴らしい旅のパートナーなんだ。
私とエリオットのゴエモンへの愛着心は日に日に強くなる一方で、
「犬と一緒に国境越えるには犬パスポートがいるんだよね?」
「犬とどうやって飛行機乗るんだろ?」などとこの先のことを話し合うようになっていた。
可能であれば、ゴエモンとこれからも一緒に旅がしたい。だけどヒマラヤの大地でのびのびと生きる彼を、空気が汚染された下界へ連れて行くのは悪い気がした。
こうしてなんやかんやとゴエモンとの将来を本気で思案し始めていた5日目の夕方。
別れは予告なくやってきた。
ゴエモンが旅に加わってから200km、私たちはスピティ谷を通過してキナウル谷へと入った。
ここからはラダックのレーへと向かうハイウェイとなり、これまでの道より交通量が多くなり、道の状態がぐっと良くなる。ということは、自転車の走行スピードもぐっと上がることを意味する。
道路工事中の砂埃がたつなか、真新しいアスファルトの下り坂をゆっくりと下るのはなかなか至難の技で、車とトラックにも注意を払わなければならない。
そのため私たちの後を追ってくるゴエモンを簡単に見失い、またゴエモンも私たちの姿を見失うたびきょろきょろと立ち止まるようになった。
何とか次の村に辿り着き、ランチをとったあと、久しぶりのポリスチェックポイントに出くわした。ポリスチェックポイントでは、外国人はパスポート情報や行き先などをノートに記録してもらう必要がある。
この手続きをしている間、ゴエモンは建物の外で他の犬と交友していた。
手続きが終わり、道に戻って自転車をゆっくりと漕ぎ出す。いつもならこのタイミングでゴエモンが私たちの出発に気づき、私たちのもとへと走ってくるのだが、このときはまだ動かずにいた。
「ゴエモン、いくよ!」と声をかけると、ちらりとこちらを見たものの、後を追ってこない。そのまま100mほど進んだところで自転車を止め、振り返ってみるが彼の姿はそこにない。
エリオットが戻って迎えにいこうとしたが、そうするべきかどうか迷いに迷った。
ゴエモンの幸せ、選択とは。。?
ここから300kmは村という村のない乾燥した高山地帯で、もしもゴエモンとはぐれでもすれば生き延びるのが厳しい場所だ。また食料の関係から9日間は毎日移動するので、彼の体力が持つかも不安だった。
これは別れのときが来たんだと認めざるを得なかった。
その後、私たちはゴエモンが追ってこないかと何度も何度も振り返りながら自転車を漕ぎ続けた。
ラダック州とカシミール州をぐるっと1ヶ月半旅して、私たちはゴエモンとお別れをした村へ戻ってきた。
同じ道を2度通ることは私たちにとってかなり珍しいのだけれど、ゴエモンとまた会えるかもしれないというかすかな期待があったため、この村へ再び通過するルートを選んだのだ。
1ヶ月半前、ゴエモンを残していったポリスチェックポイントの辺りにはたくさんの野犬がたむろっていたのだが、戻ってきた時には犬が一匹も見当たらず、ゴエモンの姿もそこにはない。
エリオットが「ごえもーーん!」と叫びながら小さな村を徘徊してみるも、なんの応答もなかった。以前はツーリストでいっぱいだった村は、厳しい冬を前に静まり返っている。
「きっと、他の犬友達と一緒に冬を越える場所へと移動したんだろうな。どうか、どこか安全であったかい場所で、のびのびと生きていてくれますように。」と心から願い、村を後にした。
今思い出してもきゅんとする、ゴエモンとの5日間の思い出。
素敵な時間をありがとう、そしてさよならゴエモン。
またいつか世界のどこかで会えますように。